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2018年01月05日

帰省と入来院の件

 今年は10年ぶりに北海道へ帰省しました。妹からも母親が後1年も持たないとの再三の連絡を受けて不安ではありましたがパーキンソン病と言う難病を押しての事で大丈夫かなという思いも強くありましたが、今生の別れかと思うと無理をしてでも行くという結論に達しました。せっかくなので同級生やら昔の遊び友達にも会うことにして30日夜出発してその日の21:30頃田舎の幼なじみにすすき野で会うことにし、すすき野のカプセルホテルに宿泊、翌31日午後から高速バスに乗り16:10に実家に到着し、1日に母親の見舞いに行き、2日の夜には帰るという強行スケジュールでしたが何とか無事乗り切りました。パーキンソン病は体温調整がしづらかったり疲れやすかったりと言う症状が出る病気なので真冬の北海道の気候に体がついて行くか自信がありませんでしたが、何とか休み休み行き無事に戻れた次第です。話は変わって東氏の話ですが、先の美濃守護代斎藤妙椿に使えていた西美濃3人衆の内の稲葉良通(一徹)と氏家直元(朴全)にもと家臣として使えてた人がいたようです。
その後新たに美濃の領主になった織田信長の直轄軍として転戦するとあります。ところで家系図の話ですが、あくまでもきっかけは豊臣秀吉の家臣宛の手紙が一般人の家から発見されたと言うYAHOOニュースをきっかけに中学生時代に何気なく見た家系図を親戚に尋ね回り、父親の長男の次女に所にある事がわかり、送って頂いた物をキンコーズで複写し1ヶ月余り夜中の3時起きで研究してきた物でしたが、ふとある事に気づきました。と言うのは、元々親戚の叔父さんの家で見せて貰った入来村史と言う書物があり、それによると結局の所我が先祖のルーツは、昭和五年三月二十日、鹿児島県入来村村役場内入来村史編纂会発行の入来村史によれば、先は肥後國求痲の城主相良氏の庶流なり。とある。 大職冠藤原鎌足十五代の孫下野顯周頼、遠州相良荘を領して相良を氏とす。七代の後胤、相良三郎長頼の六男、稲留五郎頼貞三代の孫、稲留彦右衛門尉即ち長經なり。入来院定心就封の時、長經を以って家老となす。これより入来院家の家臣となる長径種田の宇都邑を領す、依りて種田を氏とす。抑も種田氏は先代長經より代々入来院家の家老として、領主家に忠節浅からざりしと云う。とあり二十九代にわたって家老職を務めてきたことが代々の殿様の名前と共に代々の家老職の名前も書かれていました。この入来院と言う殿様は鹿児島の地元のでは有名だが島津家の軍門に降ったせいか日本国内ではそれ程知名度が無く歴史の教科書でも取り上げられることはほとんどありませんが、アメリカのイエール大学の教授が中性のヨーロッパ封建社会と日本の封建社会の比較の論文を発表していて海外では島津家より有名らしいのです。いろいろ調べて行く内に暗唱に乗り上げました。と言うのは入来院の家系というのは桓武天皇を祖として平氏として代々続く家系で鎌倉幕府の源頼朝に仕え戦功を上げ、今の渋谷の土地を恩賞で賜り渋谷5部族を名乗り、東京・神奈川の一部を納めていましたが、執権北条氏に変わってからは有力御家人の粛正が行われ6人兄弟の長男のみを関東に残し、後の5人を鹿児島へと下向させたとあります。6人兄弟の5男が戦国時代を最後まで生き残る入来院定心という初代殿様も家老として入部する事になる訳であります。種田家の家系図では渋谷5部族と同じ桓武天皇を祖とし、平氏を経て今の千葉市の元になる千葉常胤を祖にしてさらにその6男の千葉胤頼を祖にして東氏になり種田に行き着く訳ですが、最初、初代家老として入来院に下向したときが1248年で東氏が種田を名乗り始まる時期とは多少誤差がある事に気づきました。藤原鎌足から始まる相良氏稲留種田ルートは確かだが桓武天皇から始まるルートがつながら無いという暗唱に乗り上げたのでした。藤原ルートでも藤原為憲と言う人が桓武ルートの高望王の妹を妻にしていたり平氏ルートでも千葉常胤の妻が渋谷一族の祖から貰い受けたりとか昔の人は血筋という物を大事にしていたことが窺えます。現代では余り意識されなくなった家紋という物も非常に大事にされていたようです。伝説の爺さんは入来院の分家である寺尾の家系からおばあさんを嫁さんにして医者として北海道に渡る事となったのです。東氏ルートは今後の研究に期待。
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