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2017年12月04日

もうひとつのルーツでは本能寺にいた。

拝啓、師走となりあわただしい毎日をお過ごしのことと存じますが、皆様におかれましても健勝の事と存じます。ルーツ探しの旅もここ1ヶ月の間に佳境をを向かえ相当奥深い所まで行きました。それでもやはり限度という物がありますが、実は種田亀は亀松もしくは亀丸と称し父親は美濃三塚今宿城主種田助之丞正状の次男に当たると言う事です。ちなみに正状の妻は美濃の名族稲葉氏の人との事。正状の父、正隣は織田信長・信孝親子に仕え正状もその長男正義(亀丸の兄)も信長に仕え大阪陣の時、武功あり。とあるので亀丸が本能寺にいて小姓として信長を警護して討ち死にしたというのは自然の流れであり運命だったと考えられる。また正状の何代か前に種田次郎と称する人がいて種田を名乗る前は東氏と書いて(とうし)と名乗っていた様です。種田次郎と称する迄は東氏久と言う名前でした。実はこの東氏は古今和歌集の伝授の家として有名だったらしいのです。美濃東氏の2代目に行氏と言う人がいて二条流の歌人として知られその妹も歌才に恵まれ、藤原定家の子二条中納言為家は嵯峨小倉山荘で百首を書き写して与えたという。これが、小倉百人一首として世に伝えられたという。また十代目に常縁という人がいて足利八代将軍義政に使えたが、応仁の乱ので自身の居城である篠脇城が落城されたが城を奪った美濃守護代・斎藤妙椿は常縁の歌の友で、ともに足利義政の奉行人を勤めていて常縁は妙椿に領地返還の事を嘆願すると、妙椿は歌を歌ってくれたら城を返そうと返事した。そして、常縁は十首の心情を込めた和歌を妙椿に送った。

あるが内に 欺かるる世をしも 見ざりけん 人の昔の 猶も恋しき
常縁の歌に接した妙椿は、深くうたれて奪った城を返還したのであった。殺伐とした戦国時代では考えれない話だが、応仁の乱の当時はまだ古風な武士気質が残っていたのでしょう。とは言え、この挿話が美談として伝えられていることから、やはり珍しい出来事だったと言えそうだ。ネットにある。
文明12年(1480)、常縁は後土御門上皇の勅諚を拝して上洛。後土御門上皇に古今集伝授し、さらに京都東山において近衛政家・三条公敦・足利義尚らに古今伝授をした。ともある。
ちなみに常縁が妙椿に送った十首とは、

堀川や清き流れを隔てきて住みがたき世を嘆くばかり
いかばかり嘆くとか知る心かなふみまよう道の末のやどりを
かたばかり残さんこともいさかかる憂き身はなにと敷島の道
思いやる心の通う道ならでたよりも知らぬ古里の空
たよりなき身を秋風の音ながらさても恋しき古里の春
さらにまた頼むにしりぬうかりしは行末遠き契りなりけり
木の葉ちる秋の思いよあら玉の春に別るる色を見せなん
君をしもしるべと頼む道なくばなお故郷や隔てはてまし
三芳野になく雁がねといざさらばひたぶるに今君によりこん
吾世経んしるべと今も頼むかな美濃の小山の松の千歳を

読んだ妙椿の返歌は

言の葉に君が心はみづぐきの行く末とをらば跡はたがはし

文明元年(1469)四月、常縁は下総の留守を子の東縁数(よりかず)に命じて上洛し、翌月に妙椿と領地返還式を執り行った。
京の人々は喝采したとある。
まだまだ続きがあるのですが、次の号で発表したいと思います。

  
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