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2021年04月18日

ブログ記事をみた一族とみられる方からの投稿がありました。

20213月、何気なく種田の名前でネット検索したところ、GM不動産ブログを見つけ、新たな情報に胸を躍らせた次第です。お尋ねしたいのは、下記ブログエントリーにおける「東氏久」に関する出所についてです。私の検索力ではたどり着けなかったこの由来について、何を調べたらよいかのヒントだけでも教えて頂けましたら幸甚でございます。上記に対する回答です。一部省略してます。
 私のルーツではっきりしているのは、爺さんが鹿児島の川内市入来町出身で代々入来院の家老として代々仕えていて初代家老は肥後國求麻の城主相良氏の庶流なり。614-669大職冠藤原鎌足15代孫下野權顕、遠州相良荘を領して相良を氏とす。7代の後胤、相良三郎長頼の6男、稲留五郎頼貞三代の孫、稲留彦右衛門尉即ち長経なり、一二四八年入来院定心就封の時、長径を以て家老となす。これより入来院の家臣となる長径種田の宇都邑を領す、依りて種田を氏とす。鎌倉梶山の権現の神霊を奉して氏神に祀り、亦菩提寺を創建して、圓通庵と号虎す。この初代家老は遠江から君が代の発祥の地となる大宮神社を勧請したとあり、大宮神社には相良氏の家紋である丸に剣梅鉢が埋め込まれてるのでこれは疑いのないところである。一方で入来院の初代殿様の3男重経即ち寺尾氏の祖、北海道に渡った爺さんの奥さん即ち私のお婆さんが寺尾氏の末裔で寺尾家の人が昭和619月種田一族限定200部発行所、日本家系家紋研究所に依頼したのが私の以ている家系図である。藤原姓種田氏支流系圖と書かれていて稲留五郎頼貞者・長政・長径定心及び明重の時室老・長秀平次公重君及び新平次重基君2ノ世の室老・秀政美濃守重勝君の室老・頼秀・頼實遠江守・實秀遠江守・秀聡・秀高・秀縄1544年天分13年誕生・秀経・秀次・秀安1662年寛文21129日誕生・幸性1625年寛永21113日誕生・幸伯1733年享保18617日誕生・幸賭1741年寛保元年生誕・幸次・

また平氏の流れは平氏千葉常胤胤頼重胤胤行この胤行が新撰美濃の国志の伝えるところによると承久の乱の時、関東方にて戦功あり、美濃国郡上郡山田庄を賜る。赤谷村の北なる八幡城は、常縁のとき、すなわち文明1469年の初めに、この城を築き、郡上郡篠脇城より移り住みて、将軍足利義将公の命により、先祖の家業を興してここを領地しありける。

東氏久は胤行氏村(東孫八、佐渡守後醍醐帝に奉仕す。)→常顕(孫八、下野守、建武年中、足利尊氏に属し本領安堵す。氏久から種田次郎→氏継(種田小次郎)→正継・正胤(土岐成頼に属す。)・正時・正常(土岐正房に属す。)・正元(土岐成頼に仕ふ、のち斎藤道三に属し、美濃国三塚の城主となり1500貫文の地を領す)

・正則・正隣(信濃守織田信長に仕え、同信孝に仕ふ、信孝滅亡の後紀州根来寺の到り、なお、織田家を報ずの時を欲す。)正状織田右府に仕ふ大阪冬に陣の時、徳川家康に仕へ、翌年駿府に死す。)正義(・正(稲葉淡路守紀道が許に居る。)以上が私の爺さん種田幸長が町医者で北海道へ渡った入来村史とお婆さんが入来院の殿様の家系からの縁で昔でいう所のお姫様のようだったと私が幼少の頃より聞かされていたご先祖探しの旅につながる訳ですが、私がここまで情報を開示したのにはどうしても入来村史と家系図が一致する筈だと使命感にも似た感情を覚えたからでした。桓武天皇の流れを組む渋谷5族の初代入来院定心に初代家老種田長径が家臣として随従して下る。渋谷一族は元々鎌倉幕府の御家人で相模武士であったが源頼朝が亡き後、北条氏の粛清を逃れて船で2500人単位で鹿児島の地に移り住んだとある。千葉県のキャンペーンのもなっている頼朝をして父と言わしめた有力御家人の千葉常胤から東氏の東氏久につながる(種田次郎)種田一族の祖と家系図に示された人物が種田長経(稲留長径)と同一人物であるか、前後の何代かで東氏の

家系図とつながれば疑問は解けるのですが、武士は家紋と名前に入る一文字の漢字を代々大事に引き継がれて来たことが分かります。千葉氏における胤(たね)であり、種田の(たね)もたね繋がり、入来院では重繋がり、近世の種田は幸繋がり、爺さんは幸長でわたしは裕幸・叔父さんが幸記や親せきも幸正と幸の文字が多く使われています。一方相良氏の方は藤原氏の南家の為憲と言う人がいて平将門の乱で族長であった平国香の仇を国香の平貞盛と取ったが、平姓を賜った高望王の娘が国香の姉でこの時点で女系では国香が叔父ということになるので、東氏と相良氏は繋がりがあった。千葉氏の家紋は月星だが相良氏の庶流で月星が出てくる。相良氏の家紋は丸に剣梅鉢で相良長頼が京都の宇治川の戦いの戦功として北条氏から賜った。因みに新宿の鳴子天神は菅原道真にちなんで梅鉢が家紋で金沢の前田利家公の家紋が加賀梅鉢で織田信長とも関係があった。種田亀丸も本能寺の変で信長の小姓として討ち死にしてる。西美濃3人衆の稲葉一鉄(稲葉良通)の娘は徳川家光の乳母の春日局だが、一鉄の息子・稲葉重通の娘が美濃三塚今宿の城主種田助之丞正状の妻で種田亀丸(おいだ かめもしくはかめまる)の母ということになる。何か新しい情報があればお知らせください。因みに稲葉家の通の字で見事に繋がっている。


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