2008年04月22日
結局のところ我が先祖のルーツは
結局の所我が先祖のルーツは、
昭和五年三月二十日、鹿児島県入来村村役場内入来村史編纂会発行の入来村史によれば、先は肥後國求痲の城主相良氏の庶流なり。とある。
大職冠藤原鎌足十五代の孫下野顯周頼、遠州相良荘を領して相良を氏とす。
七代の後胤、相良三郎長頼の六男、稲留五郎頼貞三代の孫、稲留彦右衛門尉即ち長經なり。
入来院定心就封の時、長經を以って家老となす。
これより入来院家の家臣となる長径種田の宇都邑を領す、依りて種田を氏とす。
抑も種田氏は先代長經より代々入来院家の家老として、領主家に忠節浅からざりしと云う。
とあり二十九代にわたって家老職を務めてきたことが代々の殿様の名前と共に代々の家老職の名前も書かれていました。
島津家が三十代続いたことを考えるとほぼ同じ年代続いていたことになります。
また隈之城を守った人もいれば、征韓の役に功があった人や、島原の役に従軍した人、朝鮮役に従て戦死した人、いろいろな戦いで戦死した人も多数いることを考えれば、祖祖父も戦役でなくなって、祖祖母も苦労したことも伺えます。
最終的に伝説の爺さんは、入来院の庶流の寺尾家からお姫様をもらって鹿児島から北海道へ医者として渡るのであった。
じゃあ、私にも多少は殿様の血が混じっていることか?とか冗談で考えながら、先祖がどうであれ、この西新宿でがんばらなきゃなと思う私でありました。